スケールBOX

思込みのつおい指向性ある不定期ブログです。(^^v

謹賀新年 2024年

明けましておめでとう御座います。

〇時少し前から外は強い風が吹いています。

近所のお寺から除夜の鐘が強い風と走り屋さんの合間に・・・聞こえてきます。

 

昨年は 48のTSRで始まって TSRで終わった 気がします。

でも その間 A列車で行こう!・・・ではなかった 東武電車でGo!太田への旅や

那珂川清流鉄道保存会行きパズマニーPL2に会いにも行きました。久方ぶりに北宇都宮駐屯地祭にも・・・コロナのピークが過ぎたとの考えもあってのことでしたが まだ 去ったわけでは無いようです。

 

作品的には

AIRFIX72 TSR

Saunders-Roe SR.53

Fairey Delta 2

 

Boulton Paul P.111

Dassault Mirage IIIR

AVRO 707

AVRO Vulcan

Lippisch MD1

 

その他に

Wright Flyer

H21

これは完成機の修理なので作品数には入りませんが素晴らしいコレクションです。

 

そんな 分けで 今年も10機以上完成をめざします。

 

皆様にとって良い一年でありますように!

TSR-2

修理完了

相変わらずゴミ箱の様な・・・

48ともなりますと 補強に使える真鍮線の太さも1mmを超えます。

尾翼が取り付くと 悩ましいヒップラインも美しくまとまるから飛行機ってすごいと思います。

それにしても大きな飛行機です。

 

大きいと言えば

頂き物ですが ドラえモン??? モトイ どら焼き!

今ではいろいろなメーカーさんが色々な種類を試行錯誤しながら販売していますが・・・自分に対しても甘党な私メには マスキンさんの粒あんかなぁ~~~

 

修理・・・( ^ω^)・・・

TSRが入場しました・・・出戻りではありません・・( ^ω^)・・・

オーナーの息子殿とのバトルに負けたそうです。

早速、屋根裏の工場に運び込みます。 相変わらずデカい箱です!

その箱にピッタリサイズの大物です。

スマートなのにドキドキするラインを持ってます。

まずは 吹き飛んでしまった主脚の修理から

主脚柱の下に透明プラ棒を追加しています。

ボギーとの結合に1.5mm真鍮線を入れました。気持ち的には可動にしたいのですがプラ質が柔らかいので諦めました。

 

この後尾翼の修理に・・・

なうしか

パソコンにシガミツキNETサーフィンしてましたら・・

www.youtube.com

ブラジルの方が描いた実車ナウシカ

ものすごく美しい映像 セリフは最後の「なうしか!」だけ

なのに感動しました。

出だしの砂漠 私のイメージする砂漠に近い・・・( ^ω^)・・・

おそらく日本機の残骸か 実にリアルです。

7年の製作期間は伊達でないです!

 

時間も短いので 見てみてください!

 

 

ライト兄弟 動力飛行から120年

プラモではないのですが

1/72です

www.aerobase.shop

CMしてしまいました・・・( ^ω^)・・・

高価ですが 思ったより作り易かったです。

ただ 我が家の1歳児猫が やたら興味を示しちょっかい出すものだから 

あっちに避難・・・こっちに避難・・・あれ? 何か落ちている??? 瞬着で固定するの連続・・・でも「1/72」の文字に弱い私の貴重なコレクションになりました。

屋根裏部屋のコンコルド格納庫に納めしばらくは安全でしょう(^^;;;;

 

人車展

宇都宮城跡公園 清明館で

 

2023年12月24日まで

 

明治三〇年代に活躍していた『人車』

企画展うつのみやの人車軌道」が開催されています。

 

何故に人車が当時全国的に広がったのか? そして 衰退していったのか・・・。

 

明治に入って陸蒸気が走る 各地で産業が開花する しかし 当時は主要幹線以外 一般の道は人が歩いて通れても荷車が通れても いざ雨が降ればぬかるみ 物流はままならなかった様です。そこで考案されたのが「人車」です。レール幅が60cmの軌道敷(鉄のレール)を敷き その上で 荷を載せたトロッコを人が押して移動させる。

鉄のレールと鉄の車輪なら転がり抵抗も少ないのでしょう。 動力が馬や牛の時代ですが、人夫は馬や牛以下のだったのでしょうか・・・現在では考えられない労働条件だったのかも知れません。お金を払えば客車に人が乗り人夫が押してゆく。

今、歩いても平坦な処ばかりでは無かった様に思います。

(私メ、小学校低学年の頃の『遠足』は、まさに宇都宮市街から大谷多気山まで歩いて行きました=交通事情は今と全く異なってます)

大谷石や徳次郎石を運ぶため大いに活躍するが 道路が整備され 馬車が通れるようになり 鶴田ー大谷間に蒸気機関走る走る様になると急速に廃しされて行く。

戦後、大谷線も道路が整備されトラックの普及性能向上が期待されると国鉄が手を引き最後の東武鉄道も廃止されます。

 

これは、明治30年代に目を向ければ であります。

 

終戦時の航空写真を見ても東京街道ですらコンクリート舗装だった様です。

大谷を抜ける国道293は1976年頃まで狭くてデコボコな道でした。

今置かれている当たり前の生活環境で当時を測ってはいけないのでしょう 明治30年代に書かれた当時の風景がそれを語っているのだと思います。

 

地図の好きな方 鉄路の好きな方は一見の価値があると思います。